− 葉 −
Contents
◆ 葉っぱは緑で塗るけれど/KAWAGUCHI Yuko
◆ 「葉」/HIRAI Yuta
◆ Ha Ha Haなガーデンツアー2022年夏/MIYAKITA Hiromi
◆ 葉/MORI Atsumi
葉っぱは緑で塗るけれど
昨今、水彩や色鉛筆でモチーフをリアルに描写するイラストが流行っているけれど、これもSNS社会だからかな、と感じる。
美大生の頃は、絵がうまいというだけで評価されることはなかった。なぜなら、絵がうまいのは“当たり前”だから。入試はデッサンだし、みんなそれなりに技術を持っている。相当な描写力があれば別だが、絵がうまいだけでは見向きもされない。
学生時代の評価基準はというと、おもしろさや驚きを感じる「発想力」や「新規性」だっただろうか。だからこそ、友達が「良い」ものをつくってくると、悔しさや嫉妬が込み上げてきたし、どうにか自分を見つけてもらおうと、「個」を模索する苦しみも味わった。
ただ、間違って伝わって欲しくないのは、今回私は、リアル描写を否定しているのではないということだ。もちろん、私だってTwitterのタイムラインに飛び抜けて“うまい!”と思う画像が流れてきたら「いいね」を押すし、まじまじと観察もする。リアルイラストが、とあるサンドイッチの広告に使われているのを見た時、「こういう活用方法もあるのね」と感心した。
私がここで言いたいのは、「世の中というものは、“バズったものは評価されていると解釈されがち”なのではないか」という「SNS社会」の方である。
バズらせること(より多くの人の共感を得ること)が評価軸の一つであるのは当然かもしれない。リアル描写のイラストが「いいね」を獲得できるのは、それに「すごい」と共感する人が多いからに他ならない。
一方で、「バズったものはいいものだ」と解釈してしまう人も一定数いるのではないかと思う。かくいう私も、万単位の「いいね」には食いつくし、トレンド入りしている高評価のものは体験してみたくなる。有名人のつぶやきに関心をもったり、名もなきつぶやきにアイデンティティを感じたりもする。
ただ思うのは、多くの人の共感を得ているからといって、その意見を鵜呑みにしてほしくない、ということだ。家から一歩も出なくても世界とつながっている錯覚を覚えるネット社会で「トレンド1位」をとった情報は、その瞬間から、価値あるものに変わっていく。だからこそ、それが本当にそうなのか、見極める「目」が必要なのではないか。
葉っぱを水彩画で描くとき、緑色で塗るけれど、それはチューブから出したそのままの緑だけではない。青と黄を基調とした、さまざまな「色」が混色されたものなのだ。かつての印象派の画家たちは、太陽光のプリズムが生み出す緑の反射に、黄や紫の光と陰を感じていたという。それは、そのものをじっくり観察する「目」を持っていたからに他ならない。私たちも、その気持ちを忘れてはいけないと思う。他人の評価に左右されるのではなく、自分の「目」で見て、自分の感覚で評価すべきだ。
休日の午後。山に囲まれた自宅で、ひっきりなしの蝉の声と葛藤する。うるさいと感じるか、風物詩と捉えるか。
窓を開け、生い茂る葉を眺める。今年の夏は、特に暑い。
まぁ、こうしていろいろ書いたのは、世の中への嫉妬かもしれないけれど。
KAWAGUCHI Yuko
「葉」
ショートホープを吸っていた。
その愛称も好きだったし、
ポケットの中に収まりやすいあのサイズも好きだった。
今はもう吸わなくなったけど、
煙草が大好きだった。
ひとりで吸う煙草も好きだったけど、
煙草を吸いながら、誰かと話をするのも好きだった。
部屋で、喫煙所で、喫茶店で、飯屋で、酒場で。
ギリギリ、電車や高速バスの中でも吸えたりする時代だった。
依存性の強い物質に税金かけられて吸わされてる。
少し引いたとこから見たら、
そんなふうにも見えた部分に腹が立って気合でやめたけど、
悪いものだとは今も思っていない。
思い出の至るところに、
あの煙の匂いがしている。
そんな思い出に似た場面を、友達が歌にした。
あの夜、家出をしてきたというあいつとふたりで、
自分の部屋でカセットテープで音楽を聴いていた。
やさしい歌を歌うバンドの曲だった。
自分はショートホープに、
あいつは、マイルドセブンに火を点けた。
HIRAI Yuta(CRAB WORKS)
https://crabworks.jp
Ha Ha Haなガーデンツアー2022年夏
MIYAKITA Hiromi
https://miyakitahiromi.com
葉
旅先の楽しみと言えば、何を思い浮かべるだろうか。おいしい食べ物、お酒、珍しい景色を楽しんだり、聞こえてくる方言に耳を澄ましたり。
楽しみ方は人それぞれ、数あると思うけれど、案外、何でもない街並みを眺めているだけでも楽しかったりする。
生えている植物の様子も違ったりして、そういうのを見ると、あぁ、いつもと違う場所にいるんだなぁという感じがするし、気候や歴史、文化といったその土地の背景にあるものが垣間見える気がして、ワクワクする。
植物に関しては、特別、植生に詳しい訳ではないけれど、海外に行ったりすると、明らかに日本の街路樹とは趣が違っていたりして、面白い。
初めての海外旅行で行ったローマでは、松の木がよく植えられていた。人や車が行き交う大きな道路の脇に古代ローマの遺跡群が平然と広がる中、上の方にだけ傘のように葉が茂る巨大な松が、まるで街にやってきた巨人のようにニョキニョキと並んでいた。
過去と現在がミックスしたような、視線を移せばたちまちタイムスリップしてしまうような街並みと、日本の街路樹を見慣れた人間には違和感すら覚えるような大きな松の木は、ローマの街のイメージとして強烈に印象に残っている。
数年前に行った台北の街路樹も大きかった。訪れたのは1月末だったけれど、常緑の広葉樹が青々と枝を広げていて、更にそれが日本と比べて明らかに大きい。さすが亜熱帯という感じで、日本によく似た街並みながら、海外に来たんだなぁという気持ちにさせてくれた。
国内でも、先日行った沖縄では、コンクリート作りの四角い家々の庭先に、当たり前のように赤いハイビスカスが咲いていて、道路脇にはヤシの木や、根をタコの足のようにたくさん伸ばしてパイナップルのような実を着けた木なんかが植えられていたりして、同じ日本とは思えないような南国ムードで溢れていた。
とはいえ、こうした「ならでは」と言えるような景観だって、その土地にもともとあったものかというと、そうではないことも多い。沖縄のハイビスカスだって、もともとはハワイなどが原産で、台風などの強い風に対する防風林がわりに植えられ、数を増やしてきたという。
そうした、人々が行き来するようになって異なる土地にもたらされ、当たり前のように根付いた植物はたくさんあるのだろう。そう思うと、「自然」とは何だろうなんて考えてしまいながら、それでも、画一的にはなりきらない、その土地土地の街並みを眺めている。
MORI Atsumi
元・丹後在住。現在は京都市内でデスクワークの日々。
編集後記
「小学生の国語力が崩壊している」と、トレンドで話題に上がっていたが、その原因は、いろいろなことが複合的に重なっているからだろう。原因を考えたとき、コミュニケーション不足だけでは説明しきれない複雑さがある。
同時に、これは社会が変化してきた結果でもある。Z世代の人たちに昭和の話をしたって、「想像する」しかない。それは国語力の低下ではなく、社会の変化による常識の相違かもしれない。生きていく以上、その相違と向き合い、受け入れなければならない。
だから私は、「感想」を読むのが好きだ。ドラマや映画、小説を味わった後は、「感想」を読むようにしている。それは「答え合わせ」だけではなく、他の人の解釈を知りたいからだ。「○○○だからおもしろい」「○○○はどういう意味だ」。私が思いもしなかった解釈に出会った時、心が弾む。
世の中は、エンターテインメントにあふれている。発信する時も、受け取る時も、豊かな気持ちを持ち続けたい。
2022.8.1 KAWAGUCHI Yuko